先輩プロデューサーが過労で倒れた

第一話

 少年の目のまえに立ち、少女が言う。

「わたしね、大きくなったらアイドルになるの! 世界でいちばんのアイドル!」

 少女は一点の曇りもない笑顔だった。――笑顔であるはずだと、少年は思った。少年からはどういうわけか、その少女の顔がぼやけて見えない。

「それでね、あなたはわたしの、プロデューサーになるんだよ!」

「プロデューサーって、なに?」

 少年は尋ねる。問われたほうの少女はきょとんと目を丸くして、それから怒ったようにぷくっと頬を膨らませた。

「そんなの、決まってるでしょ! わたしをプロデュースするひと!」

 少年は困惑する。

「プロデュース、って……なにするの?」

「えっ?」今度は少女のほうが、困ったような顔をした。「……わかんない……でも、プロデュース、してくれる?」

「ええと……うん、わかった、プロデュース、する」

 少年はよくわからないまま頷いた。それで少女が喜んでくれるなら、それでいいと思った。

 少年の答えに、少女はぱっと笑顔を咲かせた。

「やくそくだよ! よろしくね、プロデューサー!」

「うん、よろしく!」

 少年はそう答えた。答えながら、少年はずっと、その少女の顔を思い出そうとしていた。


「……い、おい、寝るな、起きろ、おい」

 ――耳元でささやくような声がする。

「んがっ……」

 口元から無意識の声が漏れたのと同時に、俺は現実に引き戻された。はっとして顔をあげる。まわりの何人かがこちらをとがめるような目で見て、すぐに視線を外した。

 横にはあきれ顔の同僚の顔があった。片手で『悪い』と礼をして、俺は形だけ姿勢を正す。どうも、会社の会議中に居眠りをしてしまっていたらしい。

 照明が落とされ、暗くなった会議室。前方のスクリーンには、今期の社の収益や今後の方針を説明するプレゼンテーション資料が映されている。

 美城プロダクション、アイドル事業部。それが俺の所属する会社と部署の名前だ。多数の芸能人を抱える、日本でも有数の芸能プロダクション。

 中でもアイドル事業部は、いまもっとも業績を伸ばしている花形部署だった。百名を超えるアイドルが所属し、いまもなお拡大中。業績も年々、それはもう経営陣の笑いが止まらないほどにめざましく成長し続けている。――俺の頑張りなんか、なくても影響がないくらいに。

「以上のように、アイドル事業部としては今後も、新人アイドルの発掘と、プロデュース、イベントの開催に力を注いでいく方針であり――」

 耳の端っこで発表者の話を聞きながら、手元の会議資料をぱらぱらとめくり、居眠りして聞き逃した箇所を追いかけるふりをする。会議なんてものは、出席したという実績さえあればいい。

 俺の立場は『アシスタントプロデューサー』だ。大仰な名前がついているが、要は敏腕な先輩プロデューサーの御用聞きをしていれば、一定の給料が約束される立場。部署の方針を聞いていてもいなくても、俺の仕事にほとんど影響はない。

「それでは、方針は以上、最後に諸連絡だ。病気休暇の者が出た関係で、一部人事を臨時に変更する。過労だそうだ。まったく、上層部が休めといくら言っても働き続けてこのざまだ、仕事好きなのは結構なことだが、倒れられて責任を取る立場にもなってもらいたい。――各自、休暇は適切に取得するように」

 上司の愚痴を聞きながら、俺は資料を閉じた。

 眼前に表示された、変更された人事のリストを見る。

「――は」

 思わず、声が漏れた。

 過労で病欠になったのは俺の先輩である敏腕プロデューサーで、その穴を臨時に埋めるプロデューサーの欄には、俺の名前がしっかりと書かれていた。


「急なことで落ち着かないとは思うが、君にとってはまたとない成長のチャンスだ、がんばってくれよ」

 会議が終わり、撤収作業でにわかに騒がしくなっている会議室の中で、壮年の先輩社員が穏やかな顔で、激励代わりに俺の肩を叩いた。

「頑張ってください、プロデューサーさん」

 その横にいる、グリーンのスーツがトレードマークの女性事務員、千川ちひろさんがにっこりと笑い、ドリンクを差し出してくる。俺はドリンクを受け取りながら「はあ」とあいまいな返事をした。ちひろさんの笑顔は男性社員に人気があるが、ドリンクの差し入れは賛否両論だ。気づかいは嬉しいが、一方でもっと働け、稼げと言われているような気分になるからだというのがその理由である。

 二人は会議参加者の退室がほぼ終わったことを確認すると、会議室から出ていった。

「俺が、プロデューサー」

 声に出しても、まだ現実味が感じられなかった。

 プロデューサーなんて仕事をするつもりなんてなかった。このままアシスタントプロデューサーという立場で、先輩の指示をこなすだけの適当な仕事をして稼げればよかった。責任ある立場に昇格て変に仕事が忙しくなるようなら、適当なところで退職して実家に帰ろうと思っていた。

 両親は俺に家業の酒屋を継がせたがっている。個人商店とはいえその地域の需要を一手に担う酒屋だ。いまの仕事のような華はないが、生活の安定は保証されている。

 数年の都会暮らしで、上京の頃に持っていた都会へのあこがれも消え失せた。両親の希望にも合致している。適当に、気楽に稼いで地元へ戻る。それが俺のライフプランだった。

 だから、こんなに急にプロデューサーになるなんてことは、まったくの想定外だ。もしめんどくさそうな人事の打診や内示があれば、その時点で断って地元に帰ろうと思っていたのに。今日このときからプロデューサー、では、辞める準備すらできない。

「妙なことになっちゃったな」

 誰もいなくなった会議室でそう口に出して、溜息をついた。それから、プロデューサー、という言葉をもう一度頭の中で反芻する。

 ――そのとき。脳裏に、ほんの短い間、記憶の底にしまい込んだ映像が浮き上がった気がした。さっき、居眠りのあいだに夢に見た、少女の映像。

『プロデュース、してくれる?』

「……はあ」

 もうひとつ、わざと大きく溜息をついて、俺はその記憶にふたをする。それから会議室の照明を落とすと、資料をまとめて会議室を後にした。


 俺は病気休暇になった先輩プロデューサーの机を片付けていた。乱雑に詰みあがった書類の山の高さが半分になったあたりまで片付けて、ようやく俺は先輩の現状を把握することができた。先輩は病気の直前に大きな仕事をあらかた片付け、いまは新規ユニットのプロデュースに集中するための準備をしているところらしい。上司にも確認したので間違いはない。

 先輩が復帰するまで、それとなくこなしていれば、なんとかなるだろう。そう考えた俺は、ひとまずすべきことの整理をしておくことにした。

「……ユニットの資料は……これか」

 口のところに刺繍のようなデザインの入った、白と青の社内の普段使いの封筒を開く。中からはユニットの企画書と、プロフィールシートが数枚。まずは企画書に目を通す。

「ユニット名……未定、メンバーは五人……弊社所属歴の浅いアイドルと新たにスカウトしたアイドルで、これまでの美城にない新鮮さ、斬新さをアピール……」

 一見すると中身のないあやしい文句だが、先輩にはそれを押し通すほどの実績がある。このような文章でも、上層部なら先輩を信用してGOを出すだろう。先輩はプロデュースするアイドルたちの特性を察知し、きっちりとユニットとしてまとめ上げてしまう。

 企画書にはアイドルの名前が並んでいた。プロフィールシートと同じアイドルだろう。アイドルの名前はあとでプロフィールとあわせてみることにして、先に概要を把握することを優先した。

「……レコ発ライブイベント……この時期ってことは、次のフェスに出すことを想定してるのか……ん」

 プリントされた文字の横に、手書きでメモが書かれている。

「……会場、作編曲者、確保済み……」二度読み返す。「……もう、ケツが決まってるってことか」

 小さく溜息をつく。

「そのほかは……」

 スケジュールをチェックしていくが、ほかに動かしがたいものはなさそうだった。

 プロフィールシートを見ていくことにする。封筒からそれらを取り出そうとし……

「……う」

 思わず、眉間を押さえた。取り出そうとしたシートがきらきら光ってるかのように錯覚したのだ。俺にも疲れが出ているのかもしれない。今夜は早めにあがろう。体は資本だ。

 あらためて、封筒の中身を取り出す。社の所属アイドルに使用する書式のシートが三枚と、オーディションの際に使用される書式のシートが一枚。

「まずはうちの所属アイドルから……上条春菜……」

 Tシャツを着て、ピンクのセルフレームの眼鏡をかけた少女だった。セミロングよりやや短いくらいのストレートの黒髪で、素朴な印象を受ける。シートのアピールポイントには何度となく『眼鏡』の文字が登場し、そのどれもがわざわざ太字にアンダーラインで装飾されている。本人のこだわりなのだろうか。

「で……、関裕美」

 プロフィールの写真は不安げな表情でカメラを見つめている。強くウェーブのかかった豊かな栗色の髪は上条のそれとは対照的だった。額を大きく見せていて、少女らしく明るい印象を狙いたいのだろうが、表情が硬いのが難点といったところだろうか。先輩ならうまく彼女の魅力を発揮させられるのだろう。

「白菊ほたる」

 三枚目の写真は、幸の薄そうな色白の少女だった。関裕美よりもいっそう不安げ、いやこちらは『不幸そう』といったほうがいいかもしれない。写真はゴシック調のグレーの服を着ているが、表情のせいでまるで喪服のように見える。

 プロフィールシートを机に並べて、俺は唸った。

「……この三人を、先輩はどうプロデュースするつもりだったんだ?」

 思わず口をついて出たが、先輩の考えなんぞ悩んでもわかりっこない。俺はオーディション書式のシートを見る。

「荒木比奈……んんー?」

 シートの写真を見て、声が漏れた。写真に写っているのは、ジャージ姿で髪もぼさぼさの眼鏡をかけた女。写真から推察するに、どうもメイクを一切していない。写真の表情は不安や不幸などではなく『不満げ』なレベルだ。

「芸能部門の書類が紛れ込んだのか?」

 芸人や役者部門なら、役どころによってこういう応募もありえなくはない。俺は書類のタイトルを確認する。しかしそこには、確かに『アイドルオーディション応募シート』と書かれている。

 俺はもう一度企画書を引っ張りだし、ユニットメンバーを読み返す。そこにも『荒木比奈』としっかり書かれていた。

「先輩は、こいつになにか可能性を感じたってことか……? んっ」

 よく読むと、荒木比奈の名の横に小さく文字が印刷されている。

「……『スカウト予定』。……まさか」

 俺は書類を机の隅にまとめて、デスクの端末のキーを叩く。部署を問わず、美城プロダクションに所属するタレントの中から『荒木比奈』を検索。……該当なし。誤字を避けるために『荒木比菜』『荒本比奈』『荒木*奈』、そのほか思いつく限りのことを試す。対象者をタレントではなく、全社員にまで広げる。……が、該当はなかった。

「これからスカウトするってことかよ!」

 俺は声をあげて机を手のひらで叩いた。思ったより大きな音がして自分で驚く。プロデューサールームには俺しかいないし、外を誰かが歩いていても気にはされないだろうが。

 おそらく、先輩はオーディション審査で落選になったアイドルのうちの一人に白羽の矢を立てたんだ。あの先輩ならありえないことじゃない。

 これからの苦労を十数秒考えて、俺ははっとして封筒を探る。もう中にはなにも入っていない。机の隅にまとめた書類をもう一度改める。プロフィールシートは四枚しかない。

「ユニットは……五名だよな」

 企画書を読み返す。たしかに五名と書かれている。だとすれば、一人足りない。

「ということは……」

 俺は両目を手の甲で覆って椅子の背もたれに体重を預けた。

 先輩はまだユニットのメンバーのうち四人しか決めていない。あとの一人を、先輩はこれからゼロからスカウトする予定だったのだ。

 これも、先輩ならありえない話ではなかった。これまでも多くのアイドルを、信じられないようなところから発掘してきた。発掘して、プロデュースして、羽ばたかせてきた。

 それと同じことを、これまで雑用くらいしかしていない俺にしろと言われても、できるはずがない。

「……辞めたい、実家に帰りたい……」

 本音がだらだらと漏れた。だが、この状態ではさすがに辞められない。実家に帰っても、たま上京することくらいあるだろう。そういうときにびくびくせずに道を歩けるようでなければいけない。辞めるなら円満に辞めたい。

「でも、辞めないにしたって、こんな状況どうすりゃいいんだよぉー!」

 俺は頭を抱えて叫んだ。叫んだ拍子に、積み上げた書類が机から落ち、床中に散らばった。


「お姉さん、お美しいですね、よろしかったらちょっと話を聞いていただけませんか? あ、そうすか、すんません。……あ、そこのお嬢ちゃん、かわいいね? かわいいって言われない? 俺、アイドルのプロデュースしてて……急いでる? じゃ、名刺だけでも! 興味があったらでいいから……あ、すんませんでした」

 名刺をひっこめて、去っていく女性の後ろ姿に向かって俺は軽く頭を下げる。人通りの多いところで、カメラ映えしそうな女性を探しては声をかけ続け、一時間とすこし。話を聞いてくれる人はゼロ。せいぜい数人が名刺を受け取ってくれたくらいだ。

「そりゃ、怪しすぎるしな……でも、じゃあ先輩はどうやってスカウトしてたんだろう」

 俺はスカウトには同行していなかったから、そのノウハウは全くわからない。先輩はふらっとでかけたと思えば、誰かをスカウトして帰ってきた。どこでどうやって出会ったのかという、アイドルとはまるで縁のなさそうな淑女から、声をかけたら保護者に通報される危険すらあるんじゃないかという子どもまで。

 そんな才能など持ち合わせていない俺は、場所を変えながら声掛けをつづけた。声を張るのも疲れてきたので、ティッシュ配りのように、気軽い感じで名刺を配る方法に変えてみる。それだけだと意味が判らないので、受け取ってもらえたら声をかけて追いかけ、新人アイドルのスカウト中であることを話す。

 これでいくらかの名刺がはけた。どうがんばってもアイドルになれなさそうな人物も半分以上混ざっていたが。

「ま、名刺が切れるくらい声かけてくれば、仕事をしたっていう実績は作れるからな」

 俺はそう口に出して、自分で大きく頷く。先輩の仕事ぶりを完全にコピーするのは不可能だ。先輩だって、スカウトが上手くいかないことだってあるはず。それなら、企画書のほうを直して、四人のユニットに軌道修正してデビューさせるだろう。大事なのはアイドルユニットが完成され、俺が仕事をしたと証明できることだ。足せないときは引いてみたらいい。あとで先輩が復帰してから追加してもらう手もある。

 そう、先輩が戻るまでは『維持』ができればいい。

「あー、ちょっといいかな、きみ」

「はい?」

 突然男性の声で話しかけられて、俺はそちらを振り向く――警官が立っていた。

「ちょっと通報があってね。このあたりで勧誘行為は困るなぁ」

「あ、はい……」

 俺は小さくなって頭を下げる。

「そういうわけだから、よけいな仕事させないでね。はい、行って行って」

 手のひらでここから去れとジェスチャーされ、俺は地面に置いていたカバンを持ちあげると、そそくさとそこを立ち去った。

 不審者扱いされても文句は言えないが、気分のいいものではない。

 ほんとうに、こんな世の中で先輩はどうやって路上でのスカウトを成立させているんだろうか。俺は首を傾げた。

「ま、名刺はほとんど配り終えたしな」

 俺は自分の名刺ケースを見る。残りはあと一枚だった。

 これを適当に誰かに渡して今日の仕事はおわり。そう考えた俺は、あてもなくぶらぶらと歩く。と、前方に緑の芝生と階段が見えた。

「河川敷か。けっこう歩いてきてたんだな」

 俺は河川敷へと向かう。いまの時間なら夕日がきれいに見えそうだ。一日の終わりにちょうどいい。もし誰か人がいれば、その人に名刺を渡そう。

 土手の上を目指す。階段は少し離れていたので、芝生を昇っていった。革靴だと上りにくいのが難点だ。

「よっと……、実家の近くにもこんな土手、あったな……」

 ――アイツと、よく走り回ったっけ。芝生もしっかり管理されてはいなくて、草はぼうぼうに伸び放題だった。

 麦わら帽子がお気に入りだったアイツは、夏になるといつも河川敷でアイドルの撮影ごっこをしたがって、伸びた草のあいだから――

「……」

 脳裏にしまいこんだはずの記憶の泥が舞い上がりそうな気がして、俺は足元の草を見つめて、なにも考えずに河川敷を上った。

「…………バーーーッ!」

 すこし離れたところで元気のいい声がする。なにかスポーツでもやっているのかもしれない。

 この程度でも疲れる筋肉に運動不足を実感し、ようやく土手を登り切り、顔をあげたところで――

「ボンバーーーーッ!」

「!?」

 右耳に鼓膜を突き破りそうな大きな声が飛び込んだかと思うと、つぎの瞬間、右半身に何かがぶつかるような強い衝撃。

「おわっ!」

「あっ!」

 ぶつかられた俺はそのまま斜め後ろ方向へとバランスを崩す。――やばい。後ろは、いま上ってきた土手の坂道だ。

「うわあああーっ!」

 俺は土手をごろごろと転げおちた。視界の上下左右が激しく入れ替わって、地面に身体のいろんなところをぶつける。転げ落ちるあいだ、両腕を使ってせめて頭だけはガードした。

 身体が命の危険を感じたのか、生まれてから今までの想い出がフラッシュバックする。田舎の風景、小学校時代、幼なじみのアイツの顔――

 とはいえ、河川敷は数メートル、傾斜も緩く芝生で守られているので命の危険はない。土手の下で体はとまり、俺は体を起こした。

「いでで……な、なんだ」

「すっ、すいませんっ! 大丈夫でしたか!?」

 声のする方を仰ぎ見る。若い女のような高い声だったけれど、夕日が逆光になり、姿はまぶしくてよく見えない。

「ああ、怪我はしてないと思うから……」

 立ち上がり、体中に着いた草や土を手ではたき落とす。そのあいだに、女はこちらに向かって土手を降りてきていたようだった。

「すいませんっ!」

 女は俺の前まで来ると、直立して、深々と頭を下げた。

「空を見ながら走っていたら、土手から人が昇ってきたことに気づきませんでしたっ! すいませんっ!」

 やたら大きな声で謝っている。

「俺は大丈夫だから、とりあえず顔をあげて……」

 俺が声をかけると、ようやく女は顔をあげた。

「……あ……」

 顔が見えたとき、俺の口から思わず声が漏れた。

 女、というよりはまだ少女と言ったほうがよさそうだった。百五十センチあるかないかの小柄な少女。

 夕日を受けて栗色に輝く長い髪は、後ろでアップにまとめられている。長いまつげ、大きな目はこの世に不幸な運命なんてひとつもないと信じてるかのようにまっすぐだった。太陽みたいな明るい表情のその少女は、少女の持つ雰囲気そのままの、太陽みたいに赤いシャツを着て、俺をまっすぐに見ていた。

 ――似てると思った。が、こんなに若いはずはない、同一人物ではない。……似ているだけだ。

「すいませんっ! お怪我はありませんでしたかっ!」

 俺は我にかえる。似ているだけだ。こんなにやかましく暑苦しくはなかった。

「あ、だ、大丈夫」

「すいません、夕日を見ながら走り込みをしていて、前方不注意でした!」

 小柄な体に似合わず声が大きい。俺は思わず耳を塞ぎそうになった。

「いや、俺も階段じゃないところから上がってきたし、怪我もないから、本当に大丈夫」

「スーツ、汚れませんでしたか!」

「濡れてないしこのくらいなら。どうせそろそろクリーニングに出そうと思ってたところだし」

「それなら、よかったです!」少女はその場で軽く走り出す前の腕振りをはじめる。「では、走り込みの途中でしたので、これで! ほんとうにすいませんでした!」

 少女は礼をすると、俺に背を向けて走り出す。

 そのとき。

「あ、待って!」

 俺は、その少女を呼び止めていた。

 理由は自分でもわからなかった。気づいたら、声をかけていた。声をかけた理由を、俺は声をかけた後から探していた。

「なんですかっ?」

 少女は立ちどまり、きょとんとした顔をする。

「これ、良かったら」

 名刺を差し出す。そう、これが目的だったはずだった。

「名刺、ですか? 美城プロダクション、プロデューサー……」

「アイドル、やってみない?」

「はぇ?」少女は間の抜けた声を発して、俺の顔と名刺とを交互にみる。「アイドル……?」

「そう、アイドル」

「アイドル……って何ですか?」

「は?」こんどは俺の口から間の抜けた声が出た。「えーと、あの歌ったり踊ったりする、あの」

「えっ」

 少女は一瞬フリーズする。それから。

「えええええええええっ! 私が、アイドルーーーーーーーー!?」

 とっさに両手で耳をガードした。それでもなお鼓膜にビシビシ響いてくる大声は、河川敷に面したマンションの壁面に跳ね返ってあたりにこだました。

「あ、ははは」俺は両耳から手を離す。直に受けたら耳鼻科のお世話になるところだったかもしれない。「まぁ、興味があったらそこの名刺の番号に連絡してみてよ」

「でっ、でも! わたしがアイドルなんて! そういうのは、もっと、そう! もっとかわいい女の子とかが!」

「その点は大丈夫だと思う、キミはかわいいから」

 その言葉は本音だったためすっと出た。アイドルの魅力は必ずしも見た目の良さだけではないが、普段からアイドルや芸能人を見慣れている自分から見ても、この少女の容姿は平均から群を抜いて光っている。

 俺にとっては単なる本音だったが、その言葉を聞いた少女のほうは再び、一瞬のフリーズ。そして、解凍。

「わっ、私が! カワイイなんて、そんな!」

 少女は大げさな動きで二、三歩のけぞり、顔を耳まで真っ赤にした。

「それに、すごく元気だし。その元気を、ステージで、テレビで、みんなに分けてあげたらいいんじゃないかって」

「あ、あ、あ」そこで少女の緊張は限界に達したようだった。「わ、私っ! ……しっししししし失礼しまーーーす! ああああーーーーっ! ファイヤーーーーーーッ!」

 少女は顔を真っ赤にしたまま、なにかを叫びながらその場から走り去った。

 しばらく、その後ろ姿を見つめていた。陽はだいぶ傾き、土手を風が通り抜ける。

「……」

 空になった名刺入れを見る。

「とりあえず、これで今日のノルマは達成ってことで。戻るか」

 俺は少女の走り去ったほうと逆に歩き出す。スカウト用の携帯電話をチェックするが、着信はない。ないほうがいい、そのほうがここから先の仕事が楽だから。そう思うのに、心の端で、あの少女から電話が来たらどうだろうかと考えている自分に気づく。

「ま、そのくらい、強烈なキャラだったからな」

 先輩だったら、あの少女を勧誘していただろうか。そんなことを考えながら、俺は美城プロダクションへと戻る道を歩く。

 一人で歩きながら、これからのことを考える。荒木比奈にも一度はアプローチしてみなくちゃならない。あっちは素人だろうし、やる気もなさそうだった。向こうから断ってくれるかもしれない。

 楽にやるだけさ。俺は両手をポケットに突っ込んで、背中を丸めて歩いた。

 空しかった。自分に言い訳していることは、自分が一番よく判っていた。


 その日の夜。

 プロデューサールームで、帰り道に買ったコンビニ弁当をつつきながら、今日の報告書と、所属アイドルや関連部署の資料を作成していたときだった。

 スカウト用の携帯電話が振動する。俺は口の中の弁当のおかずを急いで咀嚼し、ペットボトルのお茶を一口飲んで、はぁ、と息を吐いて、電話を取る。

「はい、美城プロダクションの……」

「あのっ!」

 名乗りが終わる前に、大きすぎて完全に割れてしまっている少女の声が響いた。

 それだけで、話しているのが誰だかわかった。

「私っ! さっき河川敷で、ぶつかっちゃって、あのときはすいませんでした! それで!」

 電話が来れば面倒だって思っていたはずだった。

 それなのに。

「私、アイドル! やってみたいです!」

 少女がそう言ったとき、俺はたぶん、すこし笑っていたんだと思う。

「右も左もわかりません、でも! 私、ラグビー部のマネージャーをやってます! マネージャーも、選手に頑張ってもらう仕事です! それと同じで、私がアイドルになって、誰かに頑張ってもらえるなら、すばらしいと思うんです!」

「ああ」

 思わず、ほんの少しだけ、携帯電話を耳から離した。

 自分が現実を忘れないでいられるように。

 脳裏に、もう帰ってこない日々と、アイツの顔をフラッシュバックさせながら、俺はもう一度、電話に耳をつける。

「ええと、いいかな。さっき名刺を受け取ってくれた人だよね?」

「はいっ!」

「お電話ありがとう。……まず、お名前を教えてもらえますか」

「はっ、名乗りもしないで、すいません! 私!」

 少女の名前を書きとめるため、俺は机の端のメモパッドとボールペンを手元に引き寄せる。

「日野、茜と言います!」

先輩プロデューサーが過労で倒れた~喪失Pと5人のアイドル~

 第一話『お熱いのがお好き?』

・・・END

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